彼の話

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人は何をもって彼を彼と定義するのか?「モボ朗読劇 #二十面相 〜遠藤平吉って誰?〜」と物語の話


BGMはこちらで。
Chopin: 12 Etudes, Op.10 - No.3 In E "Tristesse"

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Prokofiev: Romeo and Juliet, No 13 Dance of the Knights

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現在絶賛上演中、職業ジャニーズJr.の矢花黎くんが初舞台にして初主演を飾る舞台(ジャニーズJr.こわい)を観ました。

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めっっっっちゃ楽しい。
すごく面白いですし、矢花くんのことちょっとでも気になってる方には是非!いま!観に行っていただきたい、と思いながらブログをしたためております。
舞台はそこで上演されている時にしか存在し得ないし、円盤化されたとてそれは記録映像の域を出ないですし、オタクらしいことを言うと、矢花くんの初舞台というものもここにしか存在しないので、もう、是非、見逃さないでいただきたい。今週末27日まで品川はステラボールにて上演予定です。
この記事はネタバレ満載ですが、作品自体がちょっと初見ではスルッとは飲み込みづらい系だと思うので、ネタバレ断固拒否の方には勧めませんが、もしちょっと気になっている方はちょっと読んでみてくれたら嬉しいですし、観に行っていただけたらめちゃくちゃ嬉しいです。

 

遡ること軽く半年前、私(とフォロワー)は「幸福王子」をめちゃくちゃに楽しんでおりました。本作はその「幸福王子」とも同じクリエイター、長年一緒にやっていらっしゃる、鈴木勝秀さんの作・演出、大嶋吾郎さんの音楽と演奏で織りなす朗読劇です。
芝居を長年観ているわけではなく、数を見ているわけでもなく、知識があるわけでもないので、特に演出ってとりわけ、何が何処がどう好きだと明確な言葉にしづらいんですけど、スズカツさんの作品はすごく好きなんだと思います。感覚的な話になってしまうけど、すごく肌に馴染むというか、違和感なくスッと入っていけるし、覚めることなく取り込まれる。もっと色々観てみたいなと思っています。

 

本作は、江戸川乱歩の書いた"怪人二十面相明智小五郎"という人物に焦点を当てた、オリジナルの物語。
それらが登場する「D坂の殺人事件」や「少年探偵団」「虎の牙」等から、冒頭、抜粋、抄録、抜き写し、サンプリング、などと言う形でシーンの柱も読みながら、まるで小説のページ数枚ごとを切り取って手渡されるように、断片的に次々と、その世界観が紡がれていきます。
役名として、例えば矢花くんは「アマチュア推理作家」と「明智小五郎」を兼ね(二役)、前述の現実世界に近いほうと類推される役柄はほかに「推理小説ファン」「文芸評論家」「江戸川乱歩研究家」。江戸川乱歩の物語の中と外で、全員、二役以上を担っています。
ただ、頻繁に場面が変わり、そして役が変わっても「ヤアヤア我こそは明智小五郎」「私は江戸川乱歩の研究をしている者です」等と自己紹介的な台詞があるわけではない(もちろん、話の中身から察することはできる)。そして、役が変わっても衣装や髪型はそのまま、特に変えはしない。声音だけは少し変化をつけたりもするけど、見た目に分かりやすい明らかな変化は、基本的に無い。
たぶん、この作品はこういう造りなんだと把握できるまで、そして慣れるまで、なかなか分かりづらいだろうと思います。
この『誰(役者)が誰(キャラクター)なのか一見して分かりづらい』と思わせる、親切ではない設計自体が、じつは「モボ朗読劇『二十面相』〜遠藤平吉って誰?〜」という作品の核でもあるのだと思います。
一人二役や複数役というもの自体は演劇ではさほど珍しくはないですし、朗読劇だと尚更、ト書きも兼ねたりもしますが、今作が分かりづらいように思えるのは、役の境目が曖昧で、大きな変化を付けていないから、そしてシーンの連なりが断片的で、明確な脈絡が無いように続いていくからだと思います。
朗読劇でない舞台では、衣装を変えたり髪型を変えたり、あるいは声音を変えたりもしますが、見た目に分かる外見的な変化を付ける場合が多いです。「一"目"瞭然」という言葉があるように、視覚で得ている情報って、情報の中でもかなり比重が大きいんだなと、日常生活で意識することって特に無いので、改めてハッとしました。
一度、チケットをダブらせてしまった回があってジャニオタフォロワーを誘って観に来てもらったのですが、彼女は演劇を観ていないわけではないけどここしばらくはジャニアイとかドリボとかしか観てないな〜、くらいの感じなのですが、
「話を理解するのに必死で、矢花くんじゃなくてずっと後ろの白いオブジェ見つめながら台詞聞いてた」
と終演後に言っていて、訳の分からん芝居に巻き込んだ申し訳なさ(?)を感じながら、「その見方、正解です!!!!!!」と思った。言ったかもしれん。
芝居の見方に正解もクソもないけど、視覚情報をシャットアウトする、っていうのは今作においては有効な手段だな、と思って。いつ見ても誰の台詞を言っていても見た目はずっと変わらないので、いっそシャットアウトしてしまって聴覚に意識を集中させたほうが、余分な(失礼)情報が消えて、格段に理解しやすくなると思います。

余談ですが、同じ作・演出による「幸福王子」は、朗読劇を初めて観る人にも最適な、とてもやさしい作品だったと思っています。分かりやすくて、でも想像を広げる楽しみも存分にあって。あれが難易度★☆☆☆☆なら今作は難易度★★★☆☆って感じ(適当)。「幸福王子」も観ていて「二十面相」も観たせぶんめんのファン(痺愛と言え)もたくさんいるかなと思うんですけど、それだといいけど、演劇を見慣れているわけでもないのにいきなりこの「二十面相」をブチ当てられた人はちょっと大変だろうなと思います。。あと「SUPERHEROISM」からハシゴした人も温度差で風邪引くと思う。アレはアレで一見ハッピーなのにちょっとアレなところもありますが……現実のシロップ漬け、て感じで。アレはアレで好きです。、

さて、この不親切設計(失礼)の何がどう核なのか。

作中、「二十面相は明智明智は二十面相。明智は二十面相、二十面相は明智。」という台詞が繰り返されます。怪人二十面相明智小五郎という存在は裏表の存在である、という。
そして、"遠藤平吉って誰?"とサブタイトルにありますが、これは怪人二十面相の本名だということだけれど、江戸川乱歩の「怪人二十面相」には

では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。それほど、たえずちがった顔、ちがった姿で、人の前にあらわれるのです。

と書かれている。「怪人二十面相、その正体・遠藤平吉」の顔、というのは、そもそも描かれていない=存在しないのです。(これ一見暴論のようですけど、描かないことで存在しないことを描いている、みたいなのって結構あると思っています)

「その人が誰であるか」を何が定めるかって、もちろん名前は大事だけど、顔の重要さってそれ以上かもしれないと思いました。
例えば、名前だけを見て特に記憶に引っかからなくても顔を見て「あの人だ」と気づくこともあるだろうし、何かから逃れるため、正体を隠すために整形をする、という選択肢もあるでしょう(映画の見過ぎか?)。顔が違えば、その人だと分かる人は格段に減り、疑いすらしないかもしれない。
顔を失った遠藤平吉は、怪人二十面相という"存在"を世に知らしめますが、その顔はいつも違い、肩書きも異なる(「老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも」とのこと)、変装した姿で世の人々の前に表れます。その存在の"正体"を、幾度どのように姿を変えてもいつも見抜くのが、明智小五郎
明智は、彼の何を以って彼を彼と見抜いているのか。それは、"犯行"なんだと思います。
(蛇足の言い訳。「彼」と言うと、まず男性と定義してしまうようで、あの存在を言い表すには正確ではない気がしてちょっと気が進まないのですが、"あの存在"とか"あの人"とか"they"とか言うのも大変に読みづらくなるので、暫定、"彼"で妥協させていただきたい)
彼の犯行の手段や手口から、そこに暗躍する影を彼だと見出し、定義付け、その存在の輪郭を象る。もちろん予告状でも自ら二十面相だと名乗りはするのだけれど、明智だけが常に、二十面相を認識している。顔も名前も持たずとも、明智が犯行を追い、暴くことで、そこに二十面相が存在"できる"のだ、と言えるのではないか。
そして、二十面相は明智と根比べすることを求め、「生涯のかたき」と言い、また二十面相が盗みを働くことによって明智の出番があることを考えると(二十面相の登場以前から明智は存在しているが)(事件がなければ探偵は猫でも探しているのだろうか)、二十面相の犯行が名探偵・明智小五郎を呼び起こしている、とも言えるのではないでしょうか。
「二十面相は明智明智は二十面相。明智は二十面相、二十面相は明智。」永久機関のように互いが互いを存在させている、表裏一体の存在。
あるいは、表と裏とではなく、まったくイコールの存在かもしれません。「二十面相は明智明智は二十面相。明智は二十面相、二十面相は明智。」を素直に読めば、そもそもそう言っている。似通ったように描かれている部分も多々あって、変装の名人、影武者を使う。少年性愛、小林少年が好き(かわいいので仕方ないかもしれん)。盗みというれっきとした犯罪を働いておきながら人を傷つけたり殺したりするようなことは一度もしないという二十面相と、隠された罪を暴く探偵であるにもかかわらずその過程では犯罪的な行為もまったく厭わない明智は、真反対の側から善悪両方のバランスを均等に取っているようにも思えます。
舞台中央に、顔のないマネキンが鎮座しています。物語を理解する時、視覚には頼れないこの朗読劇。ひとは"何"を根拠に、誰かをその誰かだと定義しているのだろうか……と、思い巡らせました。

いずれにせよ、読者がいる限り、明智も二十面相も、永遠に瞬間を生き続ける。
そして 、乱歩の手を離れ、明智も二十面相も、個々の読者が新たに生み出す。
読書とは、そういう作業なのである。

朗読劇は、小説に近いと思います。

自分で文字を目で追って読むのではなく、他者に読み聞かせられる小説。中には衣装もカツラも着けてリアルに扮して、アクションや殺陣のある朗読劇もありますし、そこは演出の自由な範疇で様々ですが、この「二十面相」は、音楽をふんだんに交えていながらも、小説のように読む演劇だと思いました。

上に引用した台詞を聴きながら、この作品が幸運にも観客を入れて上演されたこと、そしてそれを客席にて観劇できたことに、深い幸せを感じました。
二十面相も明智も、江戸川乱歩の物語の中に描かれた、架空の人物です。実在はしません。でも、だから、本を手に取り読む人がいる限り、いつでも、いつまでも、存在することができるのです。
そして、私が読んで頭の中に生まれた二十面相や明智と、乱歩が思い描いた二十面相や明智とは、必ず異なるでしょう。私と、あなたと、数えきれないほどの読者、それぞれの頭の中に在る二十面相や明智、すべてを揃えても、まったく同じ存在はまたと無いでしょう。
それは、誰かが誤りで誰かが正解を得ているということではありません。1+1=2のような、単純明快で、正しく揺るぎないただ一つの答えが無いのが、必ず自分自身の思考を通さないと理解できずに、人の数だけ解釈が生まれてしまうのが、物語というもので、人間というものなんだと思います。
舞台というものは小説よりももっと儚く、幻のようなものに思えます。
この「モボ朗読劇『二十面相』〜遠藤平吉って誰?〜」の物語に登場する二十面相や明智や小林少年やその他の人物たちは、今あの客席に座って観劇した人の頭の中にしか、存在し得ないのです。そして、観た人が舞台について思い返すたびに頭の中に蘇ることができますが、人の記憶というのは次第に薄れゆくもので、いつしかその人ごと、存在は消えてしまう。
もちろん、舞台を映像に残しておくことはできますが、私個人的には、それは記録の域を出ず、舞台の本質を映像の中に収めることは不可能だと思っています。
映像ならば、映画にするべきなのです。映画は、あらゆる人が力を尽くしてフレームの中にすべてを詰め、あのフレームの中に描かれたものが世界のすべてとして完成されている芸術です。
舞台というのは、その場に居合わせ、生身で表現されるものを自分の目と耳と生の感覚で受け取ることで成り立つのだと(それを観客の私が言うと尊大というか烏滸がましいなと、言いながらいつも思うのですが。そもそも芝居がなければ観客は存在し得ないのに)、無意識のうちに漠然と知っていたことを、はっきりと意識させられたのが、この一年と半年近くになろうとしているコロナ禍なのです。
残念ながら、色々な状況と理由で、公演を行う、芝居を作ることが断念される場合も多い中、きちんと観客を入れて上演できたこと、それを観劇できたことは本当に幸運だなと噛み締めています。
芝居って、めちゃくちゃ面白いのです。普通に生活していたらなかなか見ることのできない、人間が真剣に生きて、喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだりするさまを、その心の奥底まで、本心まで、本性まで、覗き込むことができる。架空だろうと、非実在だろうと、子ども騙し、お伽噺、現実には何も意味を成さなくても、だから何だと言うのでしょう。
みたいなことを、ずっと考えている一年半です。早くなんも考えずに普通に芝居がある世界線に行きたいですね。値上がりしてしまったチケ代もちょっと戻るといいな…(戻らなそう…)

 

ちなみに、わたしがこの夏と秋に観たいお芝居は以下の通りです。おすすめです。絶対良いと思うのでご興味ある方は是非(?)

■serial number「hedge 1-2-3」
7月@あうるすぽっと
実験室を見て、原嘉孝さんのお芝居もっと観たい!と念じていたらどこかしらに拾ってもらえたようです(ファンサ勘違いオタク)
詩森ろばさんの作品好きなのでめちゃくちゃ楽しみにしております。

■「SHOW BOY」
7月@シアタークリエ
先日、ミュージカル「ダブル・トラブル」を見て福田悠太さんにうっかり滑り落ちかけ、とりあえずチケット取りました。実はふぉ〜ゆ〜4人それぞれの舞台は何かしら観たことがあるのですが一堂に会する図はたぶん初めてです。楽しみ。

■「UNDERSTUDY/アンダースタディ
8月@東京芸術劇場 シアターウエス
前述の通り福田悠太さんに滑り落ちかけなのですが、この作品で完全に落ちる想定です。
小劇場のストレートプレイがどうしても好きなのですが(あと以前しばらく追っていた小劇場の役者と福田悠太さんがだいぶ似ている)(もちろん福田悠太さんのほうが圧倒的にかっこいいです)、そんなタイミングでストレートプレイで小劇場に立たないでほしい。狙いを定めないでほしい。ていうかジャニーズってシアターウエストに立つんですね。

■「Le fils 息子」
8月〜9月@東京芸術劇場 プレイハウス
キャストとあらすじ見てもらえれば説明不要なほど、良い意味で趣味の悪いキャスティングだなと思います。というか、やるほうもやるほうである。どんな心臓してるん?本場で学んできた彼のお芝居をちゃんと観たいなという気持ちもあります。

■ ロック☆オペラ「ザ・パンデモニアム・ロック・ショー 〜The Pandemonium Rock Show〜」
9〜10月@日本青年館ホール
タイトルが長い。森雪之丞さん作のロック☆オペラ「サイケデリック・ペイン」がもうずっと好きなのですが(2012年……9年前????)、そして河原雅彦さん演出、題材が昭和のロック、その楽曲を亀田誠治が書き下ろし、はもう面白くならないわけがないです。観たいに決まってる。


そんなこんなで元気に暮らしておりますので、次に書くのは福田悠太さんへの沼落ちブログでいいですか?とか言ってるとたぶん書かないですけど、まあもう好きは確約されているので、元気に書いてたら温かく見守っていただければ幸いです。