彼の話

141文字以上書きたいときに書きます

ROCK READING #幸福王子 - "READING"であり、"ROCK"である意味

 

ROCK READING「幸福王子」を観ました。

koufuku-oji.com

 

先述の通り、7 MEN 侍にド滑り落ちて仕事もろくに手につかない狂気真っ只中の8月17日、朝イチで情報解禁されて、気づいたら何回か観てました。自担がいるわけでもないのに何度も地の果て(ルビ:北千住)へ。京都にも行きます。観光じゃないけど11月の京都に行くのって初めてで、ちょっと楽しみです。たぶん京都駅エリアから一歩も出ないけど。京都駅で買えるオススメのお土産あったら教えてください。

 

いろいろな面ですごく楽しくて面白い作品でした。

まず、観劇自体めちゃくちゃ久しぶりだったんです。2月末、何もかもがダメになる寸前にカクシンハン・スタジオの「ジュリアス・シーザー」でシアター風姿花伝に滑り込み。それから次に演劇作品を観たのは先々週の東京芸術劇場プレイハウスでの野田版「真夏の夜の夢」。なぜかシェイクスピアで途切れシェイクスピアで再開。ありがとうシェイクスピア

そのどちらも、特筆してこの役者を観に!という理由で観に行ったわけではないので(素敵な役者さんはたくさんいましたが)、まず第一に役者目当てで行く観劇というのは本当に久しぶりでした。

あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ楽しかった!!!!!!!!!!!初日の終演後のさめやらぬ興奮、今思い出しても生きるエネルギーが新鮮に湧きまくる。

エンターテイメントが不要不急と言われ、後回しにされまくった2020年です。実際、急を要するものは他に山ほどあるのは事実です。それは否定しません。エンタメは「ただ生きるため」には不要なんだなと思わされました。でも「豊かに生きるため」にはエンターテイメントが必要不可欠だというのも、身をもって痛感した1年でした。

エンタメのない生活のいかに無味乾燥なことか。エンタメのない人生の、いかに貧しいことか。その贅沢さ、その体験から得られるものの貴重さを自らの体験として知れたという意味では、ある意味ではいい経験をしたと思います。いや無いなら無いでよかったですけどねもちろん。それは大前提。

 

閑話休題

以下、がっつりネタバレです。結末もすぐ分かる童話だし、あんまりネタバレも何もないと思うけど、観るまで知りたくない人はご注意ください。もしネタバレ大丈夫ならぜひ。そして京都公演観に行ってください。

チケ取る前から、当然面白いだろうとは思っていました。演出がスズカツさんだし……と言えるほど作品を観ているわけじゃないですが、以前観たスズカツさん演出の「100歳の少年と12通の手紙」という朗読劇が好きで。思えばあれも「観る朗読劇」とタイトルに銘打たれていて、朗読劇というもののベーシックな形である、ただ演者が座って台本を持って読む……だけではなくダンスがあって、ピアノの演奏があってヴォーカルが歌って、そういう朗読劇でした。(その、中島周さんのダンスが観たくて観たくて観に行きました)

「幸福王子」初日を観終えて、もう楽しくて面白くて感情のツボをゴリゴリに刺激されて揺さぶられて。この「幸福王子」で初めて朗読劇を観た人、なんなら「幸福王子」が初めての観劇だった人、マジでめちゃくちゃ羨ましい、と思いました。いやマジで、それこそ幸福だと思う。

演劇って、観客の想像力に委ねられている部分、というのが映画などの映像作品よりもかなり大きいパーセンテージを占めているものだと思います。

たとえば今作で言えば、黄金の彫像である王子を演じているのは生身の人間だし、小さなツバメも生身の人間です。そもそもふたりとも、ヨーロッパではなく日本人の二十代の男の子で、アイドルです。当たり前のことを言うようだけど、彼らは王子でも鳥でもない。ツバメが薔薇への求愛のために飛び回った川は舞台上には流れていないし、雪の積もった山々の風景も見えない。王子の彫像を護衛する警備の人もいない。ツバメが王子に語る、エジプトの冬の暖かく鮮やかな景色も言葉だけ。王子が目にして助けたいと渇望した、貧しく飢えた市民たちもいない。映像だったらきっとリアルなモノが映されたであろうところを、演劇では、観ている自分が想像するしかない。

舞台美術も、かなりシンプルに創られていたと思います。読み手の着くテーブルと椅子がそれぞれ1組ずつ。その後ろにバンドメンバー4人のスペースが組まれている。中央に、王冠をかぶり金色のジャケットのみを着た、黒色のマネキン。

それがタイトルでもある"幸福な王子の像"を表している……というのは誰が見ても分かるでしょうが、「身体全体が純金で覆われている」という設定の彫像を、金色のマネキンではなく黒色のマネキンで表しているところですでに、観客の持つ想像力を引き出そうとしているのだと思いました。

現実世界の目の前に存在するのは「黒色のマネキン」以外の何物でもなく、けれど物語の中では「身体全体が純金で覆われている像」になる。役者の芝居が、観客の想像力が、黒いマネキンを黄金の彫像へと変える——それが演劇の数ある面白さのうちのひとつだと思うんです。想像力を引き出されて、想像を膨らませて。舞台の上でなら、役者は何にでもなれる。

「幸福王子」は、その面白さを存分に味わうことのできる作品だと思います。

もしかすると、演劇を見慣れていない人には、シンプルな舞台美術は味気ないように感じられるかもしれないし、ジャケットだけ着せられたマネキンは半裸で中途半端な姿に見えるかもしれない。でももしこの先、何本もの面白い演劇に出会っていったらいつかきっと、この朗読劇が演劇の面白さにあふれた、豊かな観劇体験であったことを思い出すはずです。

 

朗読劇、といえば、コロナ禍で需要が高まった演劇の形態のひとつかなと思います。

実際のところ、制作面で朗読劇以外と比較してどれだけ違いがあるのか、感染症対策の一環としてどれだけ効果があるのか、作り手側ではないし専門家でもないのでよくわかりませんが、まあ大人数が密に触れ合いながら入り乱れるような形態に比べたら、感染リスクは幾分か下がるのかなと思いますが。

……というようなことを、情報解禁された際に思ったんですね。コロナ禍で他にもいくつか朗読劇が新たに発表されるのを見かけていて、「コロナ禍だし朗読劇か」と。

馬鹿か、と言いたい。今。当時の自分に。

実際、この企画がコロナ禍とどちらが先でどういう因果かは分かりませんが。パンフレットによれば、大嶋吾郎さんの音楽×童話を題材に、という企画は「BOSS CAT」(2018)の頃からあったそうですが、それがいつどうやって×リーディングになったのか、そして2020年10〜11月に上演する作品になったのか、鶏が先か卵が先か……は、まあ、つまり、どうでもいい。

コロナ禍だから安パイで朗読劇、じゃない。「幸福な王子」は朗読劇として上演するのが最も適している、と思わされました。

朗読劇って、私は想像の余地があってわりとかなり好きなんですが(ただ、ラヴ・レターズでバチクソに寝落ちた前科はあります……面白いは面白いんですが、眠気に抗えず……すみませんでした)制約の比較的多い表現手法だなとも思うんです。

まず、本を手に持っている。話逸れるけど、モノにもよるんでしょうけど役者さんて朗読劇の台詞って本外してもできるくらい覚えてるんですかね?ただまあ朗読というスタイル上、頭に入っていたとしても小道具として台本は必要なんでしょう。

で、アクションは比較的つかないものだと思います。前に1作か2作か観た極上文學シリーズはかなり動いていて、舞台美術や衣装のビジュアル面もかなり作り込まれていたように記憶してますが、あくまで朗読である、というテイはとっていたと思います。

「幸福王子」は、立ち上がったり歩いたり、音楽に身体を乗せたりライヴのように観客を煽ったり、という動きは色々とありました。ツバメの薔薇へのラブコール、ぐるぐる飛び回って川の水面に翼でさざ波を立てる行為が、背の高いスツールに腰掛けて両手を広げてくるくる回る振り付けになっていたのはあれはすごく可愛かった。可愛すぎて求愛されたかと思った。でも、人間の生理からくる身振り手振りや表情のアクションがついているわけじゃない。語りかけられてもそれを受け取る表情の芝居はついていなかったり、ナチュラルじゃない節回しでト書きが歌われたり。

そういう、生身の写実的な描写ではない、制約のある表現手法だから、500年その場に立ち続けた彫像と冬を越せない小さなツバメという、人間から遠くかけ離れたキャラクターによる幻想的な童話が、むしろ真に迫るのかもしれない、と思いました。

 

私はわりとどんな話でも楽しめるタイプで(というつもりでいる)、今作のような童話や子供向けの絵本などがベースの作品も、誰が殺しただの何だのドロドロしたシリアスな物語でも、ロミオとジュリエットでも、和物の時代劇でも、キャパ70の小劇場でも2500の大劇場でも、わりとどこでもなんでも楽しく観ているのですが。

ただ、基本的には、考えることが好きです。なので、初日を観て、ちゃんと原作を読んでもう一度観ようと思って、ただまあ原文を読む元気は到底なかったのでとりあえず一番ポピュラーだろうと岩波から出ている翻訳版を読んだのですが。(電子で買いました。便利な世の中。)

www.iwanami.co.jp

原作に描かれる王子とツバメは、無償の愛というか、とにかく献身的で、同情の心が深く、自分の持ち物——宝石や金箔、そして命が日ごとにすり減っていくのもいとわずに、慈愛の心で貧しい隣人のためによい行いを続け、そして死のあとには天国へと迎え入れられ、報われる。

ぼんやりしたあらすじレベルの知識だけでスズカツ版(という言い方はどうなのかはさておき)を観劇して、そのあとで原作をきちんと読み直したので、スズカツ版のキャラクターの書き込みの細かさにはこんなにも潤色されていたのかと驚きました。

王子は、冒頭から、怒る。苦悶する。怒鳴る。キレる。怒りの方向にアグレッシブな感情表現。願ったものが叶わない時、哀しむ人もいれば怒る人もいるでしょう。原作は前者で、スズカツ版は後者——それも、ただ他者に怒っているだけではなく、500年という長い時間絶えず争い続ける人間の愚かさを見続け、けれど何もできない・何ひとつ変えられない無力な自分への怒り、フラストレーションも抱えている、そんなような。

物語のキャラクターに観客が共感できるかは必須ではないと思うのですが(キャラに共感できない=つまらない、という見方はそれこそつまらない)、キャラクターの心理を理解できればできるほど物語に入り込みやすくなるとも思います。

王子の使いをして、市井の人々の生活を見たツバメは疑問を抱く。どうして貧乏人と金持ちが存在するのか?どうして金に換えられなければ自分の価値もわからないのか?

純粋無垢に、王子の望むがままにお使いを果たしたツバメという存在に、スズカツ版は、純粋は純粋だけれど、好奇心があり利発で口も達者で物事の理解も早い(けど難しいことを考えるとすぐに眠くなってしまう。キュート!)という愛すべきチャーミングさがより細かく書き加えられて、キャラクターへの思い入れもまた、物語にのめり込ませる要素だと思います。

さらに、これも原作にはない「ゼロサムゲーム」「人間は神様ですら金と結びついている話」「王子とツバメの対立(独善的と宗教的)」などの話。ゼロサムゲームのナンバー、めちゃくちゃ好きです。ツバメの「誰かの成功は誰かの失敗、……ほんとかなあ?」かわいい。「ゼロサムって?」と訊かれた王子がまず「難しく言うと……」と説明を始めるのも、らしくて好きですね。鳥相手なんだからまず簡単に言いなさいよ。

王子が宝石や金箔=自らの財産を貧しい人々に分け与える行為が、単なる時間稼ぎ、一時しのぎにしかならないと現実的な批判をツバメから食らい、そもそも王子自身もこの行いが根本的解決にはならないとは分かってながら、それでも目の前で苦しんでいる人を助けることは正しいことと思うからそうするのだ(けれど自分は動くことができないからツバメが代わりに助けに行ってくれ)というくだり。

この批判と葛藤、それを打ち砕く「自分が正しいと思うことはするし、正しくないと思うことはしない」というブレない原理。それをツバメは独善的・自己中心的とdisり、そのカウンターとして王子は「あらゆるものは自己中心的もしくは主観的である以外に存在のしようがない」と主張、対して「世界や宇宙が存在する中に自分が居るのだ」というツバメには宗教的、つまり責任逃れだとdisる。(ラストもだけど、途中でもちょくちょく宗教に対するdisが挟まれるのが面白くて好きです)

この、それまで口にはしなかった内心まで掘り下げて描く舌戦のシーン、もちろん何度読んでもワイルドの美しい詩にはそんな現実的な丁々発止はないのに、もう刷り込みのように、王子やツバメの心理や原理としてそういうものがあるんだろうと、スズカツ版の解釈に導かれてしまう。

美しいままの童話では納得がいかないのは、19世紀のイギリスではなく現代の日本に生きているからか、あるいは私がもう純真な子供ではなく大人だからか。あえて美しいものだけを観ていたい時もあるかもしれないけど、美しいだけじゃない人間のむき出しの心を覗き込みたいと思うのは、たぶん、今の私が生の芝居とフィクションに飢えてるんだなとも思います。

 

すでに5500字超えてるけどもういっこだけ話させてほしい。

美しさの話です。

王子の像はそもそも、純金で覆われた全身にサファイアの瞳、剣の束に大きなルビーがはめ込まれ、という外見で、幸福の象徴であり市民みんなの自慢、という存在で。それでいながら、王子は冒頭から、自分を賞賛する人々の愚かさに怒り嘆いている。

王子が自らの宝石や金を貧しい人々に与える、この行為をクローズアップして「自己犠牲の物語」などと言われるのだろうけど、スズカツ版の王子いわくの意図にも動機にも、犠牲の文字は一文字もないのだと思います。

苦しんでいる人を助けたいと思った。そこで(ツバメという手足を得た)自分にできることが、自分の持つ富を与えることだった。それが結果として我々の目には自己犠牲と映っただけで、王子にとっては己の美しさが損なわれることなどどうでもいいのです。

ツバメは、本来なら温暖なエジプトに渡って冬を生き延びなければいけないのに、王子のために雪の降る寒いヨーロッパに残り、結果として小さな命を落とす。でもそれも、良い行いのために身を滅ぼしたわけでもなく、ただ王子を愛して、愛する王子のためになりたかったから、そばにいたかったから、結果として命が犠牲になった。それだけの話なんだと思います。

純金の彫像は人々に美しいと賞賛され、宝石がなくなり金箔が剥がれ、足元に鳥の死骸の転がる彫像は物乞い同然と罵られて取り下げられる。溶鉱炉で溶けずに再利用できない鉛の王子の心臓は、ゴミ溜めに捨てられる。

そして——夏はヨーロッパ、冬はエジプトで過ごす鮮やかな季節を好んだツバメを天国の庭に永遠に置いてやり、500年も生き続け、市井の人々の苦しみを見続けた王子を黄金の都に永遠に置いてやろうとする神様にブチかます、ラストの"ロック"

目に見える美しさだけが本当の美しさか?

良い行いは美しい心によるものか?

私個人的には、王子は終始、人間臭い人間として描かれていたように感じました。王子はツバメのことを本当の意味では愛してはいなかったと思います。もちろん憎からず思ってはいただろうけど、それが愛かというと分からない。慈悲の心を持って貧しい人々を救おうとはしたけれど、神様のようなすべての存在への無限で不変の愛ではない。あくまで、彫像である自身に出来る範囲の、エゴイスティックな愛で。

それでも私は、そんな王子の精神を、王子へ貫いたツバメの愛を、美しいと思います。

 

 

京都公演、あす4日からですがなんか当券買って観られるっぽいのでぜひ観てください。マジで。頭で言ったようにお芝居とか朗読劇観たことない人にこそ観てほしいけど、でも生の芝居と音楽に飢えてる観劇オタクにも観てほしい。マジで。

 

 

ていうかゴリゴリに書きそびれたけど音楽がマジで最高です。精神としてのロックの話しか出来なかったけど音楽としてのロックもめちゃくちゃ最高です。

王子のナンバー、ツバメのナンバー、他にもいろんな曲あるけど、全部耳に残るし、言葉の台詞で伝わるものと音楽で伝わるものってたぶん違って、言葉と音楽はこちら側の拾うアンテナがそれぞれ別なんだなと思う。そもそも小難しく考える以前に、音楽って楽しい!!!と思えるし、7 MEN 侍のふたりはたぶんすごい歌上手くなってるし、あと小川さんのギタープレイがめちゃくちゃかっこいい。軽率に惚れた。もちろんバンドメンバー皆さま言わずもがなです。

それこそコロナ禍で大人数のオーケストラの生演奏が録音に代えられてしまったりするけど、録音ってたぶんどれだけ技術的に頑張っても生演奏には勝てないと私は思っていて、音響的な面もあるけど、自分がその場に居合わせて、その場で演奏され生み出される音を聴いている、という感覚のほうが数値では測れないけどデカいんじゃないかなあと思う。生で観る演劇と同じことだけど。

ライブエンタメって、本当に贅沢な時間だな……と思います。マジで今年ずっと思っててもうそれに尽きるんだけど、早くこれまで通りに演劇やコンサートやライブが楽しめるようになってほしいなと願ってます。

「無事に千秋楽を迎えることができました」がどれほど奇跡的なことか、もう痛いほど分かってるので、これまで通りに戻ったらこれまで以上にもっと全力で楽しむので。どうかよろしくお願いいたします。